漢方の風音 6号 ベートーベンの難聴・耳鳴り
バリトン 中川 義雄
ベートーベンは古典派3大音楽家の一人。モーツァルトの生誕より十数年後、1770年ドイツのボンで生まれ、20歳代から聴覚障害を患い、その後32曲のピアノソナタ、9曲の交響曲、16曲の弦楽4重奏曲を作曲し、更にピアノ協奏曲やバイオリン協奏曲等多数の作曲が有ります。
彼を楽聖と呼び(私は中学の音楽の授業で音楽の王と習った記憶が有りますが…)、当に音楽の聖人でしょう。
中学生の頃から、クラッシック音楽が好きで、中でもベートーベンが好きで交響曲1番から9番まで、何度も何度も繰り返し聞いたものです。単純な旋律が繰り返し出て来る、それでいて展開が素晴らしい4番が特に好きです。
彼は1827年、56歳で亡くなりましたがその26年前、31歳の時にハイリゲンシュタットで遺書を書いており、彼の死後、隠し引き出しから遺書が見つかっている。
耳鳴り、難聴と戦った苦悩がしるされている。自殺も考えていたとも書き記されている。
若い時にウイーンでピアニストとして活躍していたころ、彼の演奏を聴いた聴衆は余りの感動で涙したと言われている。
モーツアルトの音楽はその音の次の音は想像できるがベートーベンは、どんな音が出て来るか判らない、そこに彼の魅力を感じると言う音楽家もいる。それ程考え抜かれた作曲であり、聖人たる所以である。
当時、宮廷音楽が主流で、貴族をパトロンとして音楽家は生計を立てていたとされている(オーストリアのシェーンブルン宮殿の絵画にはマリアテレジアの婚礼晩餐会の画に幼少のモーツアルトが画かれている、つまりモーツアルトは宮廷音楽の中で育った)がベートーベンはそれを嫌い音楽は芸術であると唱えてその言葉どおり卓越した音楽を今日まで遺したのである。
プライドが高く偏屈者と流布されるがそれを超える高い音楽性が彼を支えていたのであろうか…。
彼の病名は耳硬化症だったのだろうと言われている。つまり感音性難聴ではなく伝音性難聴で耳鳴りとも戦っていたのである。
伝音性難聴は鼓膜の振動が3つの耳小骨、つまり、つち骨、きぬた骨、あぶみ骨と順番に伝わり、最後のあぶみ骨が聴覚神経に振動を伝えて音を認知する仕組みになっているのであるが、伝音性難聴は多くはあぶみ骨の硬化に原因があるとされている。
そして多くは耳鳴りも伴うのである。遺された彼が使った数種類の補聴器を見るにつけ、彼の苦悩が身近に感じられる。
発症原因は女性の罹患率は男性のほぼ2倍あり、ホルモン説も有りますが西洋医学的にはよく解かっていないのが現状である。
ベートーベンが活躍していた頃、日本は江戸時代で、漢方医学は変革の時代で有ったかも知れない。
滋賀県守山で佐々木一族として生まれた曲直瀬道三<室町時代、明へ渡り、李朱(りしゅ)医学を日本へ持ち帰り関東で活躍した田代三喜の弟子。後に戦国時代にかけて京都で啓迪院を開き漢方医学の門下生を育てた偉大な漢方医>が広めた後世要方(ごせいようほう)は廃れ、古医方が盛んに行なわれる様になった時代である。勿論、折衷派もいたであろう。
その時代、若しベートーベンが日本に来ていたら、当時の漢方医学で、耳鳴り、難聴を治せていたのではないだろうかと思って居ります。
完治とは言わないが日常生活に不自由なく生活出来たであろう。又、私にも若干の自信は有ります。
骨(あぶみ骨も含め)の代謝が上手くいかなくて硬化するのは、腎の主り(つかさどり)が上手くいかない為と考えます。
又、偏屈者と言われた所を考えると肝の問題も有ったのかもしれない。そして気を主る肺も考えなければならないしカルシゥムや細胞外マトリックスを考えると脾の働きも考えなければならない。私の経験から、彼の性格を考えると、元々の遠因は耳鼻咽喉を含めた感染から始まっている可能性も視野に入れて考慮しなければならない。
彼から得た様々な情報を五臓の働きと照らし合わせホリスティック的な弁証をすると治療法が見つけられたであろう。
ベートーベンはむしろ耳の障害を負った後、数多くの名作を書き上げたと言われており、耳の治療が上手くいっていたら、若しかしたら、数々の名曲は生まれていなかったかも知れない。因みに私は、ベートーベン作品全体に溢れている“苦しみを突き抜けて歓喜に至れ”…の言葉が好きです。