11号 漢方の風 ー心変わりー(長期の鼻炎と微熱)
将来の進路を決断する時期が近づいていた頃、学年でトップクラスの成績を残しているA君は漸く進学校へ進む決心をした。音楽的素養を持って生まれたA君はその才能をいかんなく発揮して、最早、師を凌ぐ程の実力を持っていた。それまで、A君は、両親は勿論の事、学校の先生、音楽の師の全ての人生の先輩の反対を押し切って、進学校ではなく、音楽の道へ進もうと決めていたのだった。そのA君は通年性の鼻炎で、一年以上ある耳鼻咽喉科へ通院した。鼻洗浄と内服薬と頓服の治療を継続して受けていたにもかかわらず、使用済みのティッシュペーパーをポケットは勿論カバンにも一杯に詰め込んで帰宅する毎日であった。そのA君が母親に連れられて私の元を訪れた。小青竜湯加桔梗石膏、葛根湯加川キュウ辛夷、ある時は柴胡桂枝湯を、時を見て状態を見乍ら、投薬した。生真面目なA君は、私の指示を守り、頑張って服用してくれ、その甲斐あって、あれ程、頑固な鼻炎が、すっかり治ってしまった。それは私の力ではなく、A君の努力の賜物だったと思っている。将来を左右するA君の心変わりは、いつもの様に、音楽のレッスンにやって来た時だったと、後日音楽の師が私の元を訪れて教えてくれた。両親はじめ学校の先生も、A君の心変わりにホッとされたそうである。あれ程、周囲の反対を押し切って迄もの、頑ななまでの決心の翻意は、一体何だったのか、その音楽の師は、A君に訊ねてみたという事であった。それは、あれ程悩んでいた自分の鼻炎を救ってくれた漢方薬の確かさを実感し、自分は将来、医師になって、様々な病気で悩んでいる人達を漢方薬で治してあげたいという事であった。そこで、あのA君の心変わりをさせた薬局の薬剤師はどんな人物か、とても気になって、その音楽の師は、当薬局を訪れたのであった。その結果、上述の全てを私も知ったのである。A君の事だから、10数年後必ず、りっぱな漢方医になってくれるものと確信を持っている。 数年前、S中学の学校薬剤師を任命されている関係で、S中学の総合学習の授業で話をして欲しいと、校長先生から要請があり、話しをさせて頂いた事があった。高校時代のラグビー部で培った気魄の事、又薬学部へ進み、製薬メーカー、勤務薬剤師を経て、漢方薬局を開設する迄の努力の事等、話をさせて頂いた。貝原益軒の「なせばなる、なさねばならぬ何ごとも、なさぬは人のなさぬなりけり」と説いて、努力の大切さを話した。いじめが社会問題となっております。約60%の生徒が、いじめた経験があり、その殆どの生徒が、いじめられる側が悪いと言い放った。又、ある時は、先生自らがいじめを行っていた。嘗ての大津市薬会報で、それは、魂の問題と私は書いた。この原稿を書いている約1ヶ月前、ある中学校の女生徒が、私に診を乞うてやってきた。見た目以上に、又、思った以上に彼女はしっかりした考えを持っていた。一人の人間として向き合った時、私はそれに気がついたのである。又、更にその1ヶ月前、ある精神科の医療施設で、漢方薬の講演を依頼された。何を話そうか考えぬいた揚句、NEETと呼ばれる人達の事を漢方的に話した。ほとんどの人は、自分の価値観で物事を判断するのである。その価値観の平均値に近い圧倒的大多数が正義であり、赤信号も皆で渡れば平気で渡れるのである。茗荷村の創始者である田村一二先生の言葉に「自とは、他の存在があるから、自があるのであって、つまり、他に自は生かされているのである云々」といった内容のものがあります。精神疾患と診断された患者さん、NEETと呼ばれる人々、親子の断絶で苦しんでいる人々等。東洋的手法で向き合った時、つまり、価値観の平均値に近い圧倒的大多数ではなく、陰陽虚実的で、全人的で、宇宙的見地で、向き合った時、真実が明らかになり、救われる人が沢山おられるものと常々思っている。長年の微熱で仕事に通えなかったBさんは、父親から根性がないと叱責をあび、親子間には深い溝があった。現代医学的にはとりたてて問題なしと聞かされた父親からすれば、根性論になるのである。あるキッカケでその父親が当店を訪れ、漢方医学的にその病気の性質(漢方では証という)について説明した所、父親は、自分の考え違いに気がつき、その結果、息子さんであるBさんは、柴胡桂枝湯加黄耆茯苓で平熱に戻り、職場復帰出来た。
(大津市薬会報 2007年 1月号掲載)